ネットとリアルのLiminality(前振り)

電脳コイル (ロマンアルバム)

電脳コイル (ロマンアルバム)

SF作品でよく観られるワープ装置の原理の一つとして、始点(入り口)となる装置で対象の肉体を分解し、終点(出口)で再構築するのだと説明された時、それは本当に本人なのだろうかと疑問に思った覚えがある。
外見だけでなく記憶まで完全に再現されるなら第三者はその人を本人だと認識するだろうし、装置に乗り込むまでの記憶を保持している本人もまさか自身がコピーだなどと疑わないだろう。
しかし突き詰めて考えればこれは入り口で本人を消去し、出口でさも移動したかのように新しく人間を作りだしているだけではないのか。
こういった非人道的な行為が平然と行われていることに疑問を感じないのは、私たちが読者として作品を俯瞰しているからだろう。
ゲームでは一度通ったルートを戻る際の短縮手段として、小説ではSFという世界観の補強材として用いられるのが常で、ワープ装置それ自体が題材となるものは多くない。
大体にして転送装置なんてものは単なる移動手段に過ぎないのだから、キャラクターにその点を疑わせるのはストーリーのテンポを損なう行為に他ならない。
存在は齟齬なく継続し、支障なく物語は展開するのだから、作者にも読者にも、キャラクター自身にとってもなんら問題はないのだろう。
インターネットの進化によってまるで現実のような実感を伴うゲームが生まれた。
記号で構成された世界がメガネ型のツールを用いることで視覚的に認識できるようになった。
そして事件は起こる。
ある子供はゲームオーバーになることで意識不明に陥り、またある子供は意識が電脳空間に囚われてしまった。
主人公はゲーム内、または電脳内で意識不明になった友人に再会する。だが果たしてそれは友人本人なのか?
再会した友人が以前と同じ容姿、記憶を有しているからと言って、それが本人とは限らない。