ヲタの壁

※この項目で述べられているオタクとは主にアニメやゲームといった虚構を好む者を指します。
自身がオタクというカテゴリーに分類されるであろうことは自覚している。だからこそ宮崎勤事件以降根付いた(らしい)オタクに対するネガティブイメージに配慮して進んでオタクに分類される話題を非オタの方々に振ることはしなかった。というより話が噛み合わないだろうことが予想できるから話さなかったというのが正解か。「昨日の×××(アニメのタイトル)どうだった?」と訊かれて即答できる一般人はまずいないだろう。会話では(別にそんなこと気にしてはいないが)オタクと軽蔑されることを恐れる以前に、その場(相手)に適した話題、会話の流れというものを意識するものではないのか。だからこそこういった配慮ができない人種をKYと呼んで敬遠しているのではないのか。
オタクは同種のオタクとしか話をしない。
しかしそういった姿勢はどうもオタク以外の人、とりわけオタクに興味を示してくれたありがたい人々にとっては壁を設けられているようで不快らしい。よく言えば慎重、悪く言えば臆病なその姿勢が勤勉な方々の探求の妨げになっているそうだ。
オタクの壁をオタク自身が補強している、冷ややかな目で見られ続けるコンプレックスも作用して、オタクは自分たちとそれ以外の人間とを過剰に区別することで特別な人間であるという自意識を肥大させている。そういった意識が存在しないとは言い切れない。特別でありたいと願うのはオタクに限らず誰もが持つ願望だからだ。
しかしそれがオタクの不透明性に繋がるかといえば、そうではない。試しにオタクにその分野の話を持ちかけてみるといい。彼らは喜んで語ってくれるだろう。好きでやっているのだから当然だ。
外から見て分かりづらいのはオタクの世界が広大で、その流れが速いためだろう。ゲームは毎月新作が出るし、アニメは毎週放映される。それらを欠かさずチェックするのがオタクという人種だ。話題はいくらでもあるし、流行なんてあっという間に変わってしまう。今や「オタク」で括れるジャンルの全貌を把握することは限りなく不可能に近いし、その必要もない。そんなものを知りたがるのは市場か学者くらいで、大抵のオタクは目の届く範囲で情報が共有できればそれで満足なのだから。
オタク=根暗で何をしでかすかわからないというイメージが根強く残る一方で、やはり「電車男」が転換点なのだろうか、世間からの風当たりが大分和らいだように思える。たとえ見世物に注がれる眼差しと同種のものだとしても、偏見で無批判に忌避されるよりは百倍マシ……か?願わくばその興味が理解に繋がりますように。